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八年もの長い介護が終わったことが、「今は」という言葉からわかります。でもそれは決して苦しいことばかりではなく、しみじみとした思い出として、作者の心に残る「物語」になった、とおっしゃっているのだと思います。そして、この句を読む方一人ひとりの背景に合わせていくつもの物語が想像されますが、どの物語にも共通するのは、主人公は介護する人と、される人の二人だということではないでしょうか。
おかげさまで第8回を迎えることができたキラク介護川柳。今年も約6,000通ものご応募をいただきました。事務局一同、大変感謝しております。本当にありがとうございました。
今回も、悲喜交々、さまざまな想いを込めた介護川柳が、たくさん届きました。互いに思いやり、感謝を伝える句がある一方で、介護を通じて自問自答する句も多く見受けられました。
介護は、決して楽なみちのりではなく、大変なことの方が多いと思います。それは介護をする側だけでなく、介護を受ける方も同様です。しかしその中でも、互いを思いやり、日々に楽しみを見つけ、時に思い悩みながら送る日常は、とても人間らしいものに思えます。
苦しみや悲しみから気付くこと、そしてそこから生まれる喜びや感謝の念もまた、「介護」であると、ご応募いただいたたくさんの作品から学ばせていただきました。そして、美しい感情や感性に触れさせていただいたことを、事務局員一同、感謝しております。
この素晴らしい作品たちが、ひとりでも多く方々の励みになり、癒しになるよう、今後もキラク介護川柳を続けていきたいと思っています。
ご応募いただきましたみなさま、そして応募を陰で支えてくださっているみなさま、本当にありがとうございました。来年もまた、素晴らしい一句に出会えることを、事務局員一同楽しみにしています。
キラク介護川柳の部屋 運営事務局
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あの雲になって、見知らぬ土地に行き、野垂れ死にできたら、自分も皆も楽になれるのに。これは作者のまわりの人々への思いやりの句です。でも、この句を読む人は、同時に介護する人の側にも、そんな思いをさせたのは自分のいたらなさだと思う優しい心を持った人が沢山いるに違いないと思い至ります。
一見救いのないように見える句ですが、そうではないもっと深い人と人の労わり合いがあることをこの句は教えてくれているように思えました。 -
見舞いに訪れた施設での食事のひと時の出来事が切り取られています。母に粥を注ごうとしたら、「帰りたい」と呟かれたのです。でもそんなわけには行きません。心を鬼にして、聞こえなかったふりをして、母のお椀に粥を入れ続けます。小さく呟く母と、黙って粥を入れる子の風景が淡々と詠まれているだけの句ですが、その風景に込められた悲しみを思うと、万感胸に迫るものがあります。
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寡黙な祖父が介護をしています。もう高齢なのですから、出来ればそんな無理をさせたくありません。もっとのんびりした老後であって欲しいと思います。けれど、現実はそんな祖父が「掴まれ」と腰を支えています。
祖父の愛情と、いつか誰にでも訪れるかも知れない老老介護という現実を垣間見させる秀句です。「寡黙な」という語と「掴まれ」という語の対比が句の印象を強くしています。 -
自分の入院当時を思い出しました。言葉一つで勇気、生きる力をもらう、またその逆も有り、です。同じ言葉でも健康な時には心に響かなかった。それは、なぜだろう?と思います。病む体は心も敏感に揺れ動いているのですね。
元気で動いている今、それを忘れていました。
どこかに必ずいる、その身の人を思う気持ちを呼び起されました。
(評:鈴木ひとみ)
順不同 敬称略